実際の動画を見たい人はこちら
吉田松陰
富永有鱗
との獄中で対話が始まった。
有鱗は悪人説に近い話をしている。
現代流で表現するとニヒリスト?
その話を要約すると
富永有鱗
私の学の真髄を・・・・
生きて腐って呪え!とか言ってますが。。。
ここで語る学問など何の意味もない
友の一人も救えない。
これがまずは学ぶべき真。
まごうこと無きうつつ!
お前の学問とは所詮、紙の上の幻じゃ!
と言って吉田松陰の大事な書物を破る。
書物を破られた吉田松陰は有鱗に殴りかかろうとして
有鱗が悪人説を披露するわけだ。
反対に吉田松陰は善人説を堅持しているのだが、その後弟子でも友でもある人が亡くなったことで妹からも咎められることになる。
まぁ結局、吉田松陰が正しい・・・・みたいな流れになっていくんだが。。。。
その中で語られているのは善人説で全てを語ろうとしていること。
無理があるだろーーと心の中で突っ込んでみたんだが。
この話題を今回はしてみたい。
善人説
人は生まれつき「善人」である。悪を働くのはその生い立ちや、環境に依るものなので、正しい教育や社会環境を作れば人は善人となるってものだ。
逆の説で悪人説っていうのがある。
世の中見てみろよ!他人が見ていなけりゃ盗みもするし、イタズラもする。弱い者いじめをするし、そもそも世界の構造自体がその連中で締められているじゃないか。ってもの。
どっちも正しそうに見えるんだが。
ウィキペディア悪人正機から抜粋
悪人と善人[編集]
「悪人正機」の意味を知る上で、「善人」と「悪人」をどのように解釈するかが重要である。ここでいう善悪とは、法的な問題や道徳的な問題をさしているのではない。また一般的・常識的な善悪でもない。親鸞が説いたのは仏の視点による善悪である。
法律や倫理・道徳を基準にすれば、この世には善人と悪人がいるが、どんな小さな悪も見逃さない仏の眼から見れば、すべての人は悪人だと浄土真宗では教える。[2]
- 悪人
- 衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。
- 阿弥陀仏の光明に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らがまことの善は一つも出来ない悪人であると気づかされる。[3]その時に初めて気付かされる「悪人」である。
- 善人
- 親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、「善人」は、真実の姿が分からず善行を完遂できない身である事に気づくことのできていない「悪人」であるとする。
- また自分のやった善行によって往生しようとする行為(自力作善)は、「どんな悪人でも救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。(#本願ぼこりも参照のこと。)
- 因果
- 凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。
何となくナットク!
ってことはー?
善悪の判断を出来るようになるのが善人になる第一歩ってことでいいのかな?
善悪の判断をするためには何が必要なんだろうね。
様々な物事を判断するための基準があるはず。
この動画を見た皆さんはどんな感想をお持ちかな?
俺の感想は。。。。。
どちらの言葉も真実であるんだろう。
富永有鱗は過去に誰かを信じて裏切られて、結果として悪人説を取るようになったんだろうと思った。
そして吉田松陰はまだまだケツの青いガキで羨ましくもあるが、人間を信じるのと同様に書物もそのまま信じるおバカさんだと思った。
どちらも正しくどちらも間違いと俺は断じたい。
こういう判断を是々非々という。
TVを見る時でもニュースを見る時でも、考える機会はいくらでもあるってことを読者の皆様に伝えたい。
俺が右翼でも左翼でもないのはそういう理由もあるんだが、意見の分断の怖さも感じているのでいろんな見方があることを皆様にしてみたく思ったわけだ。
暴力を使ったケンカをしないで反論をお互いに出来たら最高にステキ!
0 件のコメント:
コメントを投稿